禁じられた遊び」を観て、戦争のない世界を願う
Primeで、懐かしいモノクロ映画の名作『禁じられた遊び』を観ました。
パリから家族とともに避難する途中、幼い少女ポーレットは、ドイツ軍の機銃掃射によって両親と愛犬を失います。
車で犬を連れてパリから疎開できるような、比較的恵まれた家庭の一人娘。まだ、死というものを知らない。戦争というものも知らない。宗教というものも知らない、幼い子どもです。
ただ、大好きだった犬と両親が、ある日突然、動かなくなった。それだけが、彼女に起きたことでした。
子どもが作った、小さな死の世界
そんな少女が、偶然出会った土地の少年、ミッシェルを頼りに、小さな世界を作っていきます。
そこには、仲良しだった犬の死がありました。動かなくなった両親には何もできなくても、一緒に育った犬の亡骸は、いつまでも手放せなかった。
死があり、十字架があり、子どもなりの、死の世界がそこにはありました。
やがて少女は保護され、シスターとともにその場所を離れていきます。
戦争は、誰のものか
観ていて、思うのです。
戦争は、政治家のものでも、軍人だけのものでもありません。その影響を受けるのは、昨日まで普通に暮らしていた人たちです。
家族と歩いていた子ども。食卓を囲んでいた人。学校へ行っていた人。誰かを好きだった人。
戦争には、普通の人生を突然、大量に奪ってしまう、合法的な理不尽さがあります。
それなのに、人間は何度も何度も、戦争を起こし続けてきました。なぜなのでしょう。戦争が起きるたびに、多くの人生が壊れることを、私たちは知っているはずなのに。
『禁じられた遊び』という古い映画を、今、もう一度見る意味は、そんなところにあるのかもしれません。戦争を知らない子どもたちが、戦争によって、戦争を知る。それは、とても悲しいことです。
子どもたちに知ってほしいこと
できることなら、子どもたちには、戦争ではなく——
花の咲くこと。鳥の声。家族と食べるご飯。友達と遊ぶこと。誰かを好きになること。
そんなことを知って、大人になってほしい。
戦争は、人生を壊すために起こる。だから私たちは、「戦争をしない」ということを、ただの願いではなく、一人ひとりの人生を守ることの、基本のキとして、考えてゆかなければならないのだと思います。
Hoo〜〜 Waa!
名作 ひまわり。年老いた今、見えたもの。
Primeで、懐かしい名作映画『ひまわり』を見ました。
ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニ。
若い頃、何度か見た映画です。
その頃の私は、これは「愛の映画」だと思っていました。
愛し合う二人が、戦争によって引き裂かれる。
妻は夫を待ち続け、 夫は極寒のロシア戦線で死にかける。
けれど、年老いた今、 もう一度この映画を見てみると、 若い頃には見えていなかったものが、見えてきました。
これは、愛だけの映画ではなかった。
戦争によって、 自分の人生を自分で選べなくなった人たちの、映画だったのです。
夫は、自分の意思だけで帰ることができない。
妻もまた、 待つことも、諦めることも、 自分の人生として選ばなければならない。
そこには戦争だけではなく、 社会の仕組みや、時代の不自由さもありました。
一面のひまわり畑
そして、何より心に残ったのが、 あの広大な、ひまわり畑です。
黄色いひまわりが、どこまでも続いている。
一見すると、とても美しい風景です。
けれど、その大地には、 戦争から帰ることのできなかった、たくさんの人々が眠っている。
一人ひとりに、家族がいた。
愛する人がいた。
帰りたい家があった。
それなのに、帰ることができなかった。
ひまわりは、その無念を、何も語らず、 ただ一面に咲いています。
若い頃と、今と
若い頃には、 「二人は愛し合っているのに、悲しい」 という気持ちで見ていた映画。
今は、 「どうして人間は、こんなにも人生を壊すものを肯定してしまうのだろう」
そんなことを思いながら見ています。
社会主義も。 原発も。 戦争も。
時代の中では、 「国のため」 「人々のため」 「未来のため」 という大きな言葉で語られます。
けれど、その大きな言葉の下には、 いつも、一人ひとりの人間の生活があります。
愛する人を、待っている人。
子どもを、育てている人。
帰ってくることを、信じている人。
そして、 帰ることの、できなかった人。
広大さゆえに、迫るもの
『ひまわり』を今見ると、 ひまわり畑が広大で美しいからこそ、 その下に眠る人々の人生が、かえって胸に迫ってきます。
戦争は、命だけを奪うのではありません。
その人が生きるはずだった未来まで、奪ってしまう。
そして残された人にも、別の人生を強いる。
だから私は、 今はこの映画を「愛の映画」だけとは思えません。
これは、 戦争が、一人の人間の人生を、どこまで変えてしまうのか。
そのことを、静かに問いかける映画なのだと思います。
一人の人生を守るということ
広大なひまわり畑の下には、誰かの人生があります。
そして、そこにつながる方々。
その人生は、一度しかありません。
だからこそ、
戦争を許さないことは、 平和という大きな言葉を守ることではなく、
一人の人間の人生を守ることなのだと思います。
Hoo〜〜 Waa!
「野火』――戦争は、生き残った未来にも続く
出会い
Primeで、大岡昇平さんの1952年発表の小説「野火」が原作の、2014年製作の映画に出会いました。
レイテ島の日本兵たち
太平洋戦争末期のレイテ島で、敗退していく日本兵たち。
食べるものもない。
薬もない。
仲間も次々と倒れていく。
そして、生き残っても、目の前に残るものは、飛び散った仲間の身体。脳みそや腸、手足。
終わらない戦争
戦争が終われば、すべてが終わるわけではありません。
命が助かっても、見てしまったもの、体験してしまったことは、それぞれの中に残り続ける。
平穏な日常に戻ったとしても、心の中での戦争は、終わらない。
これは、戦争で亡くなった方々だけの物語ではありません。また、日本軍経験者だけの話でもありません。
生き残れた方の人生にも、戦争は残るのです。
三つの映画が見せるもの
『禁じられた遊び』では、幼い子どもの人生が、戦争によって壊されました。
『ひまわり』では、愛し合う二人の人生が、戦争によって引き裂かれました。
そして『野火』では、戦争によって、人間の心そのものが、どこまで追い詰められるのかを、見せつけられます。
若い頃には、ただ戦争の悲惨さだけに気を取られていた映画も、今になって見ると、その悲惨さの奥にあるものが少しずつ見えてくる。
なぜ、繰り返すのか
人間は、なぜそこまでして戦うのか。
なぜ、普通に生きていた人たちを、殺し合う場所へと送るのか。
そして、なぜ同じことを、何度も何度も繰り返し続けるのか。
AI時代に、私たちが学ぶこと
今はAIという、人間とはまったく違う知性とも向き合える時代になりました。
だからこそ、私たち人間が学ばなければならないのは、より強くなることだけではないと思います。
むしろ、どうすれば、子どもたちにありきたりで悲惨な経験をさせずに済むのか。
その心がけと知恵を持つこと。
過去の戦争を、美しい物語にしてしまわないこと。
英雄だけを見るのではなく、名もない一人ひとりの人生を見ること。
死んだ方だけではなく、生き残った方々の心に残った傷を、生かすこと。
それが、戦争を知らない世代に、私たちが伝えられることなのかもしれません。
過去を知ることの意味
AI時代になったからこそ、人類は、もう一度、人間とはなんなのかを考える時期に入ったのだと思います。
悲惨な経験を、もう、子どもたちに繰り返させない。
それこそが、過去を知ることの意味なのではないでしょうか。
Hoo〜〜 Waa!
人は、置かれた場所によって、変わってしまう。『手紙』
『手紙』
東野圭吾さんの『手紙』を読みました。
兄が殺人の罪で服役している。
そのために、弟は何もしていないのに、
兄の犯罪によって人生のさまざまな場面で差別され、
いじめられ、
結婚して、子どもが生まれてからも、
その苦しみから逃れることができない。
でも、苦しんでいるのは弟だけではありません。
殺された人にも家族がいる。
殺した人にも家族がいる。
一つの殺人によって、
たくさんの人の人生が変わってしまう。
もちろん、
計画的に人を殺すような犯罪と、
貧困や追い詰められた状況の中で、
夢中になって取り返しのつかないことをしてしまうことを、
同じに考えることはできません。
けれど、
ここで私は、
人間というものについて考えました。
普段の私たちは、
「人を殺してはいけない」
そんなことは当たり前だと思っています。
ところが戦争になったらどうでしょう。
昨日まで普通に暮らしていた人が、
銃を持たされる。
そして、
「敵を殺せ」と命じられる。
殺さなければ、
自分が殺される。
平和な時代には犯罪になることが、
戦争になれば「当たり前」になってしまう。
それは、
人間の中に善と悪がきれいに分かれて存在しているのではなく、
置かれた状況によって、
人は変わってしまう存在だからなのかもしれません。
だから私は、
「悪い人間をなくせばいい」とは思えないのです。
誰もが、
追い詰められれば、
恐怖に支配されれば、
自分でも想像しなかったことをしてしまう可能性がある。
そして、
人を殺した側も、
殺された側も、
その家族も、
その後の人生を背負っていかなければならない。
戦争で人を殺した人も同じです。
生きて帰ることができたとしても、
そこで見たもの、
自分がしたこと、
仲間が死んでいったことは、
心から消えてなくなるわけではありません。
人間は、
なんと悲しい生き物なのでしょう。
だからこそ、
戦争を「遠い昔の出来事」にしてはいけない。
人間は、
状況によって変わってしまう。
そのことを知ることが、
戦争を防ぐための、
一つの大切な知恵なのではないでしょうか。
殺す人と、殺される人。
加害者と被害者
その境界は、
平和な場所にいる私たちが思っているほど、
遠いものではないのかもしれません。
だからこそ、
人を責めるだけではなく、
人が人を殺さなくても生きていける社会を、
つくっていかなければならない。
それが、
私たちにできる平和なのだと思います。
Hoo〜〜 Waa!

コメント